MIYUKIKEORI
おかげさまで、弊社は創立120周年を迎えました。お客さま、お取引先様、地域社会をはじめ、多くの方々からのこれまでのお引き立てに、厚く御礼申し上げます。
多くの諸先輩方の努力の上に今があることに感謝しつつ、次世代へMIYUKIをいかに引き継いでいけるかを使命に、今後も精進してまいります。
私たちは、120年に亘り培ってきたMIYUKIブランドの価値をより一層向上させるべく、企業理念「真の価値を創造する」のもと、高品質の商品とサービスでお客様の満足度(顧客価値)を向上させ、お取引先様との連携と信頼関係(パートナー価値)を深め、社員が意欲をもって働ける魅力的な企業(職場価値)となることを目指します。
今後とも皆様方の倍旧のご支援よろしくお願い致します。
今、新しい歴史が始まります。
代表取締役社長 渡邉紘志
2024.06.19
御幸毛織創業120周年に関するトピックスをお届けます。
2025.03.31
03 HISTORY - 時代背景で見る御幸毛織120年の歩み「前編 - 立志と崩壊(1905-)」内に、1910-1927年の項目を掲載しました
2024.12.16
2024.11.14
2024.10.28
2024.10.28
2024.10.28
2024.10.24
1905 -
1946 -
1985 -
2025 -
1905年(明治38年)1月8日、利一郎は名古屋市中区前津小林(1910年に丸田町となる)に製織工場を、同西区前ノ川町(現、西区城西3丁目)に染工場を建設しました。当初目指したのは輸出用の木綿生産。
折しも日露戦争は終章を迎え、1月1日には旅順のロシア軍司令官ステッセルが日本に降伏を申し出た、日本という国がまさしく「坂の上の雲」を目指して世界に向けて大きく羽ばたこうという歴史の転換点の真っただ中であり、創業者である祖父江利一郎も例外ではなく、本腰で木綿の輸出に取り組む体制をつくり上げたのでした。
祖父江利一郎氏
前ノ川染工場および御幸毛織合資会社営業部
西志賀工場正門
木綿生産に取り組むべく創業した当社でしたが、このころ政府は、毛織物自給の殖産興業を奨励しており、木綿織物から羊毛織物への転換が進みつつあるところでした。そこで1907年1月、染色工場のある前ノ川の西、台所町に綿毛交織の着尺セルを織る製織工場を新設。すでに尾州地区では撚糸・織・染色・整理が専門業者による分業となっていましたが、利一郎は各地から優秀な人材を集め、織・染色整理まで自社で行うという今につながる一貫生産体制を整えました。また、織物産地としては尾州地区が有名ですが、あえてすべての工場を西区内に設けています。それは、より良質の水を求めたものと伝わっています。
この工場の元で皇族にも献上された特許商品クラップチリメンを生産。そして1908年(明治41年)「御幸」の名を交織物一切に使用するため商標登録を出願、10月14日に正式登録され、「御幸セル※」として販売。「御幸」の名を世に打ち出していきました。
セル(セルジス)語源:サージより転訛したもの。(概説)俗にセルといい、和服に使用される主に二巾ないし四巾の織物である。輸入のサージに模倣して着尺用に製織したのは1895年(明治28年)頃であったが、一時休止し、1904年(明治37年)に尾張津島町の片岡春吉が研究して、着尺用セルの製織に成功した。
クラップ縮緬広告
クラップチリメン展示会の様子
クラップチリメン 当時の絵はがき
当時取締役 栗原家蔵
御幸セル 明治42年6月号「婦人画報」の広告掲載
1910年5月、利一郎は名古屋市西区台所町の工場を、改めて毛織物の製造販売を目的とする法人として設立登記しました。
多くの経営者が自分の名を社名とするのに対して、製品ブランド「御幸」の毛織物をつくるということを体現させ社名を「合資会社御幸毛織工場」としました。
社名「御幸毛織」の名はこの瞬間世に出たことになります。さらに、1913年(大正2)1月19日、西春日井郡金城村大字西志賀字中流1916番地(現、名古屋市西区西志賀町1916)に御幸毛織合資会社を設立、当地は平成のはじめまで御幸毛織の本社として機能し、その後名古屋都市高速開通による道路拡幅のため移転。現在は「ミユキ」の名を冠した複合商業施設「ミユキモール」として地元の皆様の生活の拠点となっています。
また、このころ第二の創業をになうこととなる外村商店と取引を開始。当時の外村商店の記録には「『セル中の覇王と称せられる』御幸セルの販路が増大して好成績を得たことや、クラップ縮緬が積極的な販売促進活動によって好評を博し、輸出向けとして特約を申し込む者さえ少なくなかった」と御幸に対する大きな期待がつづられていました。
しかし、この拡大施策は創業間もない御幸にとって結果としてはまだ分不相応な投資でした。加えて第一次世界大戦の開始による輸入染料の暴騰で、資金繰りに行き詰まるという経営の失敗を引き起こし、創業からちょうど10年目の1915年(大正4年)2月14日、祖父江利一郎は解任、この瀕死の状態となった御幸毛織に最大の取引先あった外村商店の傘下となりました。
しかし、皮肉なことに大戦の影響で海外からの生地がストップ、国内羊毛製品需要が急激に増加したため、もともと品質自体には高評価であった御幸製品はこの波に乗って販売を拡大し、外村商店はその潤沢な資金で西志賀工場一帯を拡充。
1918年11月27日には新社を設立、外村宇兵衛氏が新社長となりましたが、外村商店とは切り離し、新生「御幸毛織株式会社」が誕生しました。
「御幸セル」をはじめ新生御幸が発表した製品は“セル界に新生面を開いた”と評判になり、服地、帽子地、膝掛地も第一級品と認められるようになりました。
なかでも膝掛地は畜産工芸博覧会に出品したところ、天皇陛下の行幸の折にお買い上げいただくという光栄に浴しました。
こうして順調に業容を拡大する中、当時東京中心の販売店開をしていた当社は1927年(昭和2年)、舶来品の羅紗商として名高い大阪の鷹岡商店と取引を開始、これが御幸のその後を決定づける大きな出会いでありました。
「紳士服生地をやってみないか」国内産紳士服地がほぼなかった当時、舶来品を扱う鷹岡商店からこう勧められた当社は高級紳士服地開発に取り組み、鷹岡商店との二人三脚で試行錯誤の末1928年初120反の春物を上市、これが好評で次の冬物は倍以上の300反の受注となりました。
この「純国産高級紳士服地」には鷹岡商店の保有する商標「FANCYTEX」の名が冠され、その後年号が平成に変わったあとまで鷹岡商店(現:鷹岡株式会社)により独占的に販売されました。
FANCYTEX商品展示の様子 昭和9年鷹岡商店展示会
FANCYTEXロゴデザイン
作者からのコメント
長年のアーカイブ資料を元にリメイクしたヘリテージコレクション(御幸毛織1981年当時の色柄を復刻)
産地交流生地:北海道十勝の藍染工房とのコラボレーション。天然すくも藍染ウール使用。
アラシャンカシミヤ100%。3色杢を用いた深みのある色が特徴。四日市工場の縮絨機で丁寧に揉みこみ、カシミヤ独自の柔らかさと風合いが特徴の素材。
1981年発売の御幸毛織伝統素材。南アフリカのモヘア産地を支援するエシカルプロジェクト。仕立て映えする圧倒的なハリ感、光沢感が特徴。キッドモヘヤ100%
環境対応生地:無染色のアルパカ100%織物
産地交流生地:滋賀県姉川にある国産シルク糸をウールにブレンド。ナチュラルな光沢感が特徴。ウール82%シルク12%
2025年、御幸毛織は創業120周年を迎えることとなりました。
これまでのお客さまと、ミユキの先人、多くの関係各位の皆さまに支えていただいたことへの感謝を申し上げます。
そして、120年のその先へ向け、さらなる情熱とチャレンジで「愛せる服を。」つくり続けます。
制作コンセプトは「幸せブーケ」。特別な節目を迎えるハレの日を祝うブーケから着想し、生き生きとした配色でリズムよく植物をあしらいました。なお、植物は、ウールの廃材を畑の土に混ぜて栄養分として有効活用して元気よく育った植物をイメージしました。
120周年記念に加えて、御幸毛織株式会社が近年取り組んでいる新規事業「アグリ」をもっと多くの人に知ってもらえるきっかけとなることを願い、デザインしました。